国師院

更新日:2022年05月23日

安芸国の仏教を統括していた僧官の在所

国師は奈良時代に都から各地に派遣された僧官で、各国の僧侶の指導・育成や法会(法要)の執行をしていました。
文献でははやくからその存在が知られていましたが、発掘調査で、「国師」「国師院」「国院」などの墨書土器が出土し国分寺の寺域内に国師の事務所(国師院)が置かれていたことが明らかになったのは、安芸国分寺が初めてです。
国師院・講師院跡と考えられる遺構は、寺域の北東エリアで確認されました。国師院跡の遺構は、僧房の北東約20mの地点で、南・北ともに庇をもつ東西19.6m、南北約11.3mの大型建物跡が検出されています。身舎は桁行7間(約19.6m)、梁間2.間(約5.4m)で、柱間は桁行方向の中央5間が約2.9m、両端1間ずつと梁間方向は約2.7mです。庇は南北ともに身舎の中央5間に付属しています。大型建物跡に平行して北・東・西の三方向に板塀と考えられる柱穴列を検出しており、大型建物跡を囲むようにめぐることから、大型建物を中心とした空間、すなわち「院」を形成していたと考えられます。
柱穴列は東側の南半及び南側で検出されませんでしたが、これが元から存在しなかったのか、遺構面の削平によりものかは不明です。
北側の東端及び西側の北端では柱穴列が途切れており、出入り口であった可能性が考えられます。
国師院と推定される大型建物跡から北東に約45m離れた地点では、桁行5間(約10m),梁間2間(約5m)の建物跡を中心に東西方向に長い建物跡数棟が検出されています。さらに、この付近では9世紀中頃から10世紀初頭の土器類とともに「講院」「講-」「講院三」「読」などの墨書土器が出土しています。延暦14(795)年には国師は講師と改称され、さらに諸国購読師制度が天長2(825)年に開始されています。以上のことから、これらの建物群は、9世紀末から10世紀初頭の一連の動向により国師院から移転設置された「講師院」の建物群である可能性が考えられます。


国師院跡写真

発掘調査時の国師院跡の写真です。作業員が立っている場所が柱の位置です。

 

 

大形建物の柱穴の変化

大形建物の柱穴の変化の予想図です。
当初は掘立柱建物であったのが、後に礎石立建物に建て替えられたと考えられます。

 

出土した墨書土器

出土した墨書土器です。この墨書から国師院の所在がわかりました。

 

調査当時の古代安芸国分寺伽藍配置

調査当時の古代安芸国分寺伽藍配置予想図です。

 

講師院(部分)発掘調査写真

史跡範囲外にある、講師院跡と思われる施設の発掘調査時の写真です。
国師院の北東の方向に存在します。

 

講師院想像図

講師院と思われる建物の復元想像図です。

 

講師院跡出土の墨書土器

講師院跡から出土した墨書土器です。

 

水晶製白毫

講師院跡から出土した水晶製の白毫です。
白毫の出土は全国でも希少なものです。

 

関連速報
阿岐のまほろばvol.26(平成14年11月発行)(PDF:2MB)
阿岐のまほろばvol.6(平成8年3月発行)(PDF:2MB)

地図情報

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