平賀氏の遺跡

更新日:2018年04月26日

平賀氏について

平賀氏は、高屋保(高屋町南東部)を本拠とした中世の在地領主です。

古くは松葉氏を名乗っていましたが、出羽国平鹿郡(秋田県)を領有して平賀氏と称しました。高屋保の地頭職を得て、鎌倉時代後期頃に高屋保に本拠を移し、高屋堀の御薗宇城を弘安年間(1278から87)に築城したと伝えられています。また、南北朝時代の内乱期には、北朝方に属して活動し、新たに入野郷(河内町)を足利尊氏から所領として与えられました。

応永11(1404)年、山名満氏が安芸国の守護職になると、平賀弘章は守護方の軍勢を相手に激しい抵抗を続け、応永11年9月の安芸国人一揆結成の主導者となりました。その後も平賀氏は、造賀保(高屋町造賀)など周辺地域に勢力を拡大していき、有力な国人領主として成長しました。白市の白山城は、1503年に築城されたと伝えられており、この頃本拠を御薗宇城から移したと考えられます。

大永3年(1523年)には、この地域で大内氏と尼子氏の勢力が拮抗し、大内氏の拠点である鏡山城が落城しました。これに対抗するため、この頃に頭崎城を築城しましたが、平賀弘保・興貞親子の不和が重なり、平賀氏内部でも動揺が続いたようです。

天文18(1549)年、興貞の子である隆宗が陣中で没すると、大内義隆は養子として小早川隆保に平賀家を相続させました。しかし天文20年に陶晴賢の謀反によって大内義隆が倒されると、平賀隆保も大内義隆派の残党として毛利元就に滅ぼされ、隆宗の弟である広相が再興しました。

平賀広相は、天文21年に小早川隆景と兄弟の契約を結び、その翌年には毛利氏・吉川氏・を加えた4家の盟約を結びました。この時点で戦国大名毛利氏に属する有力な国衆としての地位を確定させ、賀茂郡や豊田郡を中心に1万8000石余の所領を有しています。

その後、平賀氏は、関ヶ原の敗戦による防長転封に際し、一旦毛利家を退去しましたが、間もなく帰参して、長州藩士として明治維新まで続きました。

県史跡「平賀氏の遺跡」とは、平賀氏の墓地と御薗宇城跡、白山城跡、頭崎城跡の総称です。
 

平賀氏の墓地

平賀氏の墓地は、中世の高屋地域の在地領主の墓地で、その菩提寺であった「明道寺」の跡といわれています。平賀氏は出羽国平鹿郡(現在の秋田県横手市の大部分)から安芸国に移り、平賀氏の墓地から東南約500mの御薗宇城を居城としました。この墓地には、宝篋印塔や五輪塔、石仏が約40基あります。

入ってすぐ左手の最も大きな宝篋印塔は、塔身に梵字と「天巖」の刻銘があります。江戸時代の地誌「芸藩通志」には、「天巖」は十七代平賀隆宗の法名で、これが隆宗の墓と記されています。さらに、隆宗の墓と並んで「一如妙」と刻まれているのは、隆宗の妻の墓であると書いてあります。

この他に、塔身に梵字と「真岳」の字が刻まれている宝篋印塔は、十五代平賀弘保の墓といわれています。弘保は、文亀3年(1503)に御薗宇城から白山城に本拠を移し、さらに、大永3年(1523)に頭崎城を築いています。弘保はその後、永禄元年(1558)に没しています。平賀隆宗は弘保の孫で、天文18年(1549)神辺城攻めの陣中で病没しました。

御薗宇城跡

 

室町時代に安芸国の守護となった山名満氏は、平賀氏を含む安芸国人衆と対立し、応永11年(1404)十代平賀弘章の御薗宇城を攻め囲み、合戦は3年にわたる長期戦となりました。その間、弘章の子共益・惟益・惟元らは討死にしましたが、他の安芸国人衆の応援により持ちこたえて、山名氏を退けることができました。

戦国時代になり、十五代平賀弘保が文亀3年(1503)に白山城を築いて新たな居城とするまでの、約200年間、御薗宇城は平賀氏の本拠地となっていました。

城跡は防御と居住を兼ねた館城で、南に延びた低丘陵を切断し、3段の平坦な郭と、それを三方から馬蹄状に囲む土塁状の郭からなっています。この付近には「馬場」や「番匠免」、「トギ」、「カヂヤ」などの地名や、明道寺跡や円福寺跡などの寺跡があり、御薗宇城跡を中心にして中世の面影を残しています。御薗宇城跡は鎌倉時代の城郭の特徴を今に伝える貴重な城跡です。

白山城跡

白山城は、平賀弘保が戦国時代の文亀3(1503)年に築いたとされる城で、それまで本城としていた御薗宇城から拠点を移しました。この地は、交通の便がよい白市の町を眼下に見下ろせるほか、四方を眺望でき、自然の地形を利用して防御に適した城です。

最高所の郭は、大きく3段に分かれており、その周囲に帯郭がめぐっています。この郭群から南西に伸びる尾根筋上や南に伸びる尾根筋には大小の郭が広がっています。

頭崎城跡

頭崎城は、中世安芸国の有力な国人領主平賀氏が築いた山城です。

平賀氏は出羽国平鹿郡から移り、高屋町高屋堀の御薗宇城を居城としました。その後平賀弘保は、文亀3(1503)年に白市の白山城に本拠を移しましたが、さらに戦乱の激化に対処するため大永3(1523)年に白山城の北方約4キロメートルにある、比高約200メートルの頭崎山頂に頭崎城を築き、その子興貞が居城したとされます。

現在も多くの曲輪が残っていて、曲輪の名前が残っているものとして、本丸にあたる「甲の丸」や「西の丸」「太鼓の段」「煙硝の段」「稽古場」「大将陣」などがあります。
南麓には、「屋形原」「御屋敷」「蔵屋敷」という地名や常楽寺跡などが江戸時代後期に編纂された『芸藩通志』上で確認することができ、居館や寺院、家臣の屋敷を配置していたと推測することが可能です。このように、頭崎城は戦国時代末期の国人領主を考えるうえで、非常に重要な遺跡です。

 

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