市史跡 生城山城跡

更新日:2025年04月01日

有力国衆の志和東天野氏の本拠と伝わる山城跡

生城山城について

生城山城跡は、標高485メートルの生城山(東広島市志和町志和東)に残る山城跡です。鎌倉時代末期に伊豆国天野郷(静岡県伊豆の国市)から地頭として志和に来住した天野顕義の子孫、天野興定によって築かれたと伝わっています。天野氏は当初、大内氏に従っていましたが、大永3年(1523)の尼子氏による鏡山城攻略の頃には、尼子氏に寝返ったとみられます。しかし、大永5年(1525)、当時志和東の米山城に拠っていた興定は大内氏の攻撃を受けたため、和議を結び、再び大内氏に従いました。その後、築かれたのが生城山城です。

戦国時代の山城として、本丸を中心に二の丸、三の丸、見張りの壇、井戸の壇、お馬が壇、侍屋敷などが天野元政の時代に整備されたと考えられます。本丸には巨石の柱穴があり、櫓跡とされています。居館は現在の光源寺付近にあったと伝えられています。生城山城は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後に天野元政が周防国熊毛郡三丘(山口県)に移るまで天野氏の居城でした。

昭和53年(1978)11月5日に東広島市史跡に指定され、現在もその遺構が残されています。山頂からは志和盆地を一望でき、歴史的な価値とともに自然の美しさも楽しむことができます。

天野氏について

天野氏は、伊豆国天野郷(現在の静岡県)を領有していましたが、南北朝時代に志芳庄(志和)の地頭職を得て、志芳庄に本拠を移しました。志和では、天野氏は志和堀天野氏と志和東天野氏の二家に分かれ、それぞれ金明山城と米山城を本拠としました。後に志和東天野氏は本拠を生城山城に移したと伝わります。

戦国時代を通じて、天野氏は大内氏や尼子氏との間で勢力を維持し続けました。特に志和東天野氏の天野興定は、尼子氏に属した後、大内氏との和議を結び、再び大内氏に従いました。その後、生城山城は天野氏の居城として機能し、天野氏の歴史と密接に関わっています。

天野氏の中でも特に注目すべき人物は天野元政です。元政は毛利元就と乃美大方との間に生まれた七男で、天野元定の養子として天野氏を継ぎました。彼は多くの戦いに参加し、特に毛利輝元と尼子勝久の間で行われた上月城の戦いでは、大きな功績を挙げました。その後、元政は毛利氏の一門として活動し、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜されるなど、その影響力を広げました。
元政は後に姓を毛利に戻して右田毛利家の祖となり、右田毛利家は長州の一門家老となりました。明治時代には華族の男爵家となっています。

天野元政肖像画

天野(毛利)元政肖像画

基礎情報

  • 名   称   生城山城跡(おうぎやまじょうあと)
  • 種   別   史跡(市指定)
  • 員   数   1件
  • 所在地   東広島市志和町志和東字元広10136-1
  • 指定日   昭和53年(1978)11月15日
  • 年   代   中世後期(戦国時代)

アクセスについて

  • 芸陽バス六日市バス停下車、徒歩約1時間
  • 山陽自動車道、志和インターチェンジから車で約10分 光源寺から徒歩約1時間

 山道ですので虫や野生生物等に注意して散策してください。

大内氏に関する文化財

この記事に関するお問い合わせ先

生涯学習部 文化課 文化財係
〒739-8601
東広島市西条栄町8番29号 北館2階
電話:082-420-0977
ファックス:082-422-6531

​​​​​​​メールでのお問い合わせ

このページが参考になったかをお聞かせください。
質問1
このページの内容は分かりやすかったですか?
質問2
このページは見つけやすかったですか?
質問3
このページには、どのようにしてたどり着きましたか?


質問4
質問1及び2で、選択肢の「3.」を選択した方は、理由をお聞かせください。
【自由記述】
この欄に入力された内容について、回答はいたしませんのでご了承ください。
市役所へのお問い合わせは、各ページの「この記事に関するお問い合わせ先」へお願いします。